三代目社長のあゆみ 第4話 〜遊びに夢中な中学生時代〜

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だらだらと書き綴っているこのシリーズ、第4話は中学編です。
ちょっと話が前後しますが、実は私、3歳から少林寺流空手道 錬心舘 荒田道場で空手を学んでおりました。

当時一緒に鍛錬していたのが伝説の小説『マンドリル刑事』の著者で今や中山の繁盛店『居酒屋むらおか』の2代目村岡秀樹です。

幻の小説【マンドリル刑事】について詳しく聞きたい方は中山バイパス沿いの【居酒屋むらおか】で店員に「マンドリル」と言ってみてください。きっと伝わります。

さて、話を戻しますが、空手と言っても極真のようなフルコンタクトではなく、精神鍛錬メインの型の部でした。

錬心舘では、初代宗家【保 勇先生】の教えにより、体が成熟するまでは組手はするべきではない!基礎があっての組手だ!ということで、組手ができるのは高校生から。中学生までは型の鍛錬を重ねていました。

小学校2年生で初めて全国大会に出場以来、中学校1年生の夏でやめるまで6年連続全国ベスト8という成績を収めましたが、当時荒田道場は全国覇者や2位、3位の選手がゴロゴロいたレベルの高い道場でしたので私は中の上レベルでした。

小学生時代は空手に打ち込む日々でしたが、ある日テレビドラマでスクールウォーズを見ることになります。「泣き虫先生」の滝沢監督や

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「川浜一のワル」と恐れられた大木大助、梅宮達夫の男気に憧れた私は

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『よし!高校生になったらラグビーをやろう!』と決意。

また、当時従兄弟が鹿児島工業高校でラグビーをしていて、試合を生で見る機会もあり気持ちは空手からラグビーへ。

当時ラグビーに興味を持った私のために母が少年ラグビースクールを探してくれて、鹿児島でも小学生のラグビーがあるとわかり、少しだけラグビーをかじったりもしました。

少年ラグビーは楽しかったのですが、空手とラグビーの2足のわらじ、ましてラグビーは日曜の朝から練習で、三度の飯よりラーメンと睡眠が好きな私は日曜日に早起きできずあえなく退部。再び空手のみの日々へとなりました。

中学生にもなるとさすがに10年近くやってきた空手に飽きがきたのと、毎年ベスト8でそれ以上の向上心が芽生えなかったのでどうせなら高校ラグビーに向けてキック力や走力をつけなきゃいかんとサッカー部へ入部。

中学校1年生の夏に空手からサッカー部へとシフトしました。

が、不器用な私はリフティング最高記録27回。

小学生以下です。

サッカーは遊びでやるには楽しいですが、部活となるとどうも楽しくない。

そりゃ当然です。部活ですもの。

1年生の終わりに腕を骨折し(サッカーじゃなくてゲーセンのパンチングマシーンでw)、それを理由に練習を休み、いつしか幽霊部員と化しました。

その当時、悪友たちとハマってしまったのがスケボー。

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日々サッカー部を横目に市民文化ホールや今とは形状が大きく違う共研公園、出来たばっかりのテンパークでスケボーと戯れる日々。

毎日をいかに楽しく生きるかに必死でしたね。

その当時、他の学校のいろんな人と知り合い、今でもテンパークで現役スケーターとして神とあがめられる教祖様 のような先輩など多くの人たちと仲良くなりました。いまでも当時の仲間は付き合いがあります。

その頃はとにかく遊びに夢中。将来の夢だとか現実問題からは遠ざかっていました。

が、やはり小遣い稼ぎにと日曜や祭日には置き場の片づけや現場の片づけに行っては曳家と過ごす日々も送っていました。

そうやって定期的に現場の空気に触れていたことも今の自分につながっているのかもしれません。

中2までは必死で毎日遊び呆けていましたが、3年生ともなると部活も夏までで最後、さらにその後は受験という現実が押し寄せてきます。一応サッカー部には復帰してました。。。

高校でラグビーをやるとは決めていたものの、当時全国大会を狙える学校は鹿児島工業高校か鹿実も2強時代でした。

当時の学力ではちゃんと受験勉強しないと鹿児島工業には合格できないレベル。

受験勉強して鹿工か?はたまた親父と兄貴の後を追って鹿実か?料理人をめざして城西高校の調理科か?

三択で悩みましたところ、親との家族会議。

『自分の将来は自分で決めなさい。好きにしなさい』と両親。

『じゃあ、城西の調理科に行って料理人になりたい!』と僕。

意外な答えに戸惑う両親。。。

『なぜ城西高校よ!ラグビーなら鹿工か鹿実だろ!』と兄。

最終的に『これからは土木の時代だ!やっぱり土木科に行きなさい』と父。

『じゃあ勉強面倒だから鹿実でいいや。』と僕。

『お兄ちゃんが大学とかでお金かかるんだから公立にしなさい!ちゃんと勉強して鹿工に行きなさい!』と母。

『好きなことしていいんじゃなかったの?結局好きな道選べないじゃん。』と心の叫び。

さらに

『将来自分の店を持ちたいなら建設業で地位を築いてからでも遅くは無いぞ。建設業の道を歩みつつ、生活が安定してからサイドビジネスで飲食店をする方法もある。なんだかんだでお前は建設業だ!』とあっさりレールを敷かれ、そこから猛勉強の末、晴れて鹿児島工業高校へ入学しました。

結局なるべくしてなった今の職業であったのでしょう。

中学校時代は良くも悪くもたくさんの思い出とたくさんの仲間ができた3年間でした。

つづく