三代目社長のあゆみ 第10話 〜社会人デビューの2000年~

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時は流れて、2000年。

世の中では【ミレニアム】で沸きました。懐かしいですね!2000年問題。

結局何も起こらず無事に21世紀突入でした。
ちなみに2000年に流行ったものはコチラ

この年、無事に大学を卒業(単位ギリギリで4年生の最終講義までフル稼働してw)を迎え、鹿児島へ帰りました。

大学卒業後の進路は、すんなり稼業というわけではなく、一応いろいろ考えましたね。

楽しくなってきた北九州の生活を続けるために、北九州の土木屋さんに就職をするか、鹿児島に帰って建設会社に就職するか、昔からの夢、飲食業の道へ進むか。

というのも、学生時代、モスバーガー以外にも焼き鳥メインの居酒屋のお手伝いも少しだけしていました。やっぱり楽しかったですね。

その頃でも料理好きは変わらなかったのですが、夢はコックさんが変化してきて、ラーメン屋➡︎居酒屋➡︎バーテンダーと変化していき、卒業後はバーテンダーの修行にでようかと思ってました。

なんか蝶ネクタイしてシェーカー振る姿に憧れて、部屋にカクテルキット揃えて後輩に振舞ったりもしてましたね。

前回のお話でモスバーガーで働いていたことをご報告しましたが、実は私、モスバーガーでの態度が良かったらしく正社員としてもスカウトされてました。

でもモスバーガーは盆正月の休みもない仕事なので、さすがにそこは辛いと却下。

モスバーガーで精神を鍛えてもらったのにあっさりと裏切る僕でした。

その後遊びながらもいろいろいろいろ考えて、やっぱり建設業の道へ進もうと決めました。

しかも、せっかく稼業が誰にも真似できない仕事【曳家】の会社となれば、よそで10年修行してる間に曳家職人への道が10年遅れるという現実がありました。

また、たまたま私が卒業を迎える2000年4月は【旧鹿児島県庁舎本館玄関部分曳家工事】という生きてる間に二度と出会えないであろう仕事を弊社で受注していました。

旧鹿児島県庁舎本館玄関部分曳家工事の様子

『このチャンスを逃すと二度とこんな仕事には携われないかもしれない。』

この物件が私の今の曳家人生の物語のスタートでした。

そして鹿児島へ帰り、4月からいよいよ社会人。

これまでのアルバイト時代とは責任が違います。

今までのアルバイトは1日過ごして体は絶好調な夜から出勤。

社会人となってからは、朝7時に出社、現場へ向かい8時から作業開始。夜帰宅するのはなんだかんだで20時ごろ。

当時ラグビーを引退したばかりだったので体力には自信がありましたが、いかんせん学生時代に無責任&自由奔放な生活をしていたせいで朝が弱い。

そして実家住まいだったので社長である親父と同居。

「いつまで寝てんだ!早く起きろ!」と素敵な声で目覚める毎日。

シフト制の仕事とは違い、現場の仕事は「ちょっと調子が悪いので今日のシフト代わってもらいます」ってのがまずありえない。

熱があろうがお腹グルグルだろうが、必ず会社には行きました。

一人が抜けると現場の流れが大きく変わる。

「新人のまだ使い物にならない小僧一人が休んだくらいで」ってのではなく、一人一人きちんと役割があり、その現場に入るみんなで1チーム。

『仕事をして給料をもらう以上はみんなプロフェッショナルでなくてはならない。』

まさにその通りです。

今考えれば、なんて甘ったれた考えで仕事してたんだろうと思います。

毎日仕事から帰ると夕食の時間はその日の仕事の反省会。

素直じゃない僕は自らの意見を尊重し親父とぶつかり合う日々。

でもその中でいろいろ考える機会を与えられ、親父の言ってることが現場で合致したとき、一気に理解度が増しました。

今背負ってる責任に比べれば、当時の小僧一人の責任なんてたかが知れていますが、自分が甘かった以上、これから迎える若い社員たちには仕事をする本当の意義を考えさ、理解してもらえるよう導いていきます。

若い頃って、「自分の主張が正しい!世の中は何もわかっちゃいない!」とかって勘違いしちゃうんですよね。

世の中いくら立場が変わっても、知識や技術を得ても年齢だけは勝てません。自分より先に生まれた先輩には年齢だけは一生勝てません。

今の社会、失われつつある、「年上を敬い、年下の面倒を見る。与えた恩義は水に流せ。受けた恩義は岩に刻め!」の精神を復活させていきたいと思います。

たった22年生きてきて、人生をいっちょまえに語る若者が右葉曲折しながら曳家職人としての道を歩みだした記念すべきミレニアムでした。

つづく